オリンピックを一年延期する際に確か時の総理大臣は「フルスペックの五輪を開催するために」延期すると言っていたような…。当時の「新規感染者数」(今思うと信じられないくらい少ない!)でさえ判断は「延期」だったのだが、結局敵は相当に手強かったということ。開催まで1ヶ月となって、フルどころの騒ぎではない。
ところで、各地の教会も今フルスペックの礼拝が出来ているところはほとんど無いのではなかろうか。川崎では「短縮版」と呼んでいたが、礼拝の要素の内いくつかを削って、総体で時間を短縮する方法を採ったし、四谷にしてもそうだったと思う。
その決断に至るまでに時間の余裕もなかった。コロナは常に「待ったなし」で迫ってくる。川崎の経験で言えばどれを残しどれを削るかは牧師の一存だった。イヤむしろ、一存でよいかどうかを検討する暇さえなかった。ひょっとして多くの教会でそうだったのではないかと推察する。
だが、「短縮版」にせよ何にせよ、むしろそれが「通常版」ではないかと思えるほど身に馴染んできている時期だからこそ、今なら少し余裕を持って「どれを残しどれを削るか」を再検討してもよいかも知れない、と思ったりもしている。
ただ、短縮版であれフルスペックであれ、礼拝の順序は決して便宜的なモノではなく、教会固有の歴史や実践に密着したモノなのだから(その割にコロナ緊急事態に際しては「安易」に変更しすぎ?)、それなりに時間をかけることがあっても良い。ややこしいことに、そうするためにも密を避けなければならないのだけれど。
その過程を経ることで生まれるものは、もはや「短縮版」でも「便宜的」でもなく、文字通り教会の「今」にとってのフルスペックなのではなかろうか。
2021
27Jun